発菩提心ということ

第37期開講記念で行われた、東洋大学名誉教授・元学長 竹村牧男先生の特別講義の内容の一部をご紹介します。

一、はじめに
皆さんこんにちは。まず36期の修了生の方、ご修了おめでとうございます。お疲れ様でした。
そして37期の入塾生の方、東京国際仏教塾へのご入塾、おめでとうございます。これから、それぞれの選ぶ宗派で仏道を歩んでいこうという決意を固められたということで、深く敬意を表したいと存じます。今日は仏道を歩むという決意と言いますか、覚悟を定めると言いますか、菩提心を起こすということ、発菩提心についてお話ししようと思います。

発菩提心、詳しく言うと、発阿耨多羅三藐三菩提心、阿耨多羅三藐三菩提心を起こすということですね。阿耨多羅というのは、これより上がないという意味です。三藐というのは正しいということ。三菩提というのは完全な悟りとよく訳されます。この上ない正しい完全な悟りを求める心を起こしたというのが発阿耨多羅三藐三菩提心、少し縮めて発菩提心、もっと縮めると発心ですね。大乗仏教では、我々の心が修行によって悟りの智慧に変わるとされますが、その悟りの智慧が阿耨多羅三藐三菩提ということになります。

二、仏とは何か
⑴大乗仏教の目標

仏教の考え方として、我々が苦しんでいるのは、自我に執着しているからだとされます。変わらない自分というものがあると思ってそれに執着して、他人と比較しながら自分を守ろうとする。そういう自我に対する執着、これを我執と言います。
それから仏教ではそういう自分も含めて、世界を構成している要素となるものを分析しております。大乗仏教の前の説一切有部という部派、その教理は倶舎論にまとめられていると言われていますが、そこでは五位七十五法という七十五のダルマ(法)というものが分析されました。このダルマとは、世界の構成要素に当たります。それには物質的なもの、心理的なもの、さらには物でも心でもないもの等、いろいろと分析されています。その諸法に対する執着が法執というものです。ですから法執とは、単に外界の物質的なものに対する執着だけではないのですが、あえて分かりやすく言えば、いろいろなものに対する執着というふうに考えてよろしいかと思います。

それで大乗仏教は、人間にはそういう我執と法執とがある、これを超えていかなければなかなか苦しみからは解放されない、という基本的な認識を持っているわけです。この中、我執を修行によって断つと、涅槃が実現すると言われています。逆に自我に執着するから、また次の世に生まれてくる、生死輪廻するということもあるわけです。我執を断つことによって、生死から解脱し涅槃に入るということになります。小乗仏教ではそれで満足する、生死輪廻の苦しみから解放されて満足ということになります。

しかし大乗仏教はそういう涅槃に入ったとして、それが本当に我々のいのちの目標なのであろうか、ということで、人間には法執もありますね、これ解決しなければなりませんねと、法執を断つことによって悟りの智慧を実現する、菩提を実現することも目指さなければならないと考えました。

こうして、大乗仏教では我執と法執をともに断っていく。そのために、 一切法空という思想も説かれたのです。我執と法執をともに断っていくことによって、涅槃と菩提の双方を実現する。この菩提が実現した時は、生死のただ中に空なる世界、寂静なる世界、涅槃を見ることになります。すなわち、生死の中へ入っていって、人々を救済する活動をし続けるただ中に、涅槃を見るということになります。これを無住処涅槃というのです。生死には住しないが涅槃にも住しないという無住処涅槃を実現します。これが大乗仏教の目標であり、この両方を実現した人が仏と言われる存在です。

※全文(ダイジェスト版)は『佛教文化』第219号で紹介しています。
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