清忙とは清々しい忙しさ

1998(平成10)年、東京国際仏教塾の開講式で行われた鎌田茂雄先生の記念講演を18回に分け、ご紹介しております。本日は第14回です。

哲学的に生と死とを考えて、 普段の生活をどういう事に注意しなければならないかというと、 もう少しお話しします。
皆さんもこれから仏教全般を勉強したり、 あるいは各宗派の様々な宗教行事に参加される方もいらっしゃるでしょう。 また、 宗教的な行をしたり、 作務もすることになると思います。
作務とは労働のことですが、 禅宗では 「さくむ」 と書いて、 労働のことを 「さむ」 と言います。 労働には変わりなく、 草をむしったり掃除をすることを作務と呼びます。
それをする時の心掛けと言いましょうか、 気持ちの持ち方、 生き方について佐藤一斎先生はこう言っています。
これからお話しすることは、 ややお年寄りの方に当てはまるのですが、 若い方もいずれは歳をとるのですから、 聞いておいても良いのではないでしょうか。
【清忙せいぼうは養ようを成なす。 過閑かかんは養ように非あらず。 】
(心にすがすがしく感じさせる忙しさは養生になる。 あまりにひま過ぎるのは養生にならない)
簡潔にして良い言葉です。 清忙とは心で清々しく感じる忙しさです。 ですから清らかな忙しさと書いてあるのです。
気持ちが清々しい忙しさというのは、 「ワァー。 忙しい忙しい、 朝から晩まで追い立てられている」 というのはいけないのです。 何となくゆとりのある忙しさ、 というのでしょうか。 清らかな忙しさというのは、 ゆとりのある忙しさということです。 こういうように、 心で清々しく感じる忙しさ、 それは養生になる。
実際に人のために少しでもお役に立つこと、 公園で落ちている紙くずを拾ってあげる、 ということは清忙になる。 気持ちが清々しいでしょう。 人様のためになっているかな、 と思うでしょう。
ところが万引きで忙しい忙しいでは、 清忙とは言わないのではないかと思うのです。
万引きが仕事だ、 と言われてしまうならば仕方がないのですが、 「今日は忙しくて忙しくて、 こんなに稼ぎがあった」 と言ったとして、 やはりそれは清忙とは言わず悪忙ではないでしょうか。
清忙でなくてはならないのです。 清忙は養生だ、 と言っているのです。 清忙は体にも心にも役に立つのです。
その反対が過閑は養に非ず。 暇ひまがあり過ぎることを、 過閑といいます。 暇があり過ぎるのは養生にはならない。
人間、 定年退職して暇ができます。 仕事をしている時には、 昼間から酒を飲むようなことはありません。 怒られますし、 仕事になりませんから。 しかし、 定年になるとやることがありません。
朝から散歩して、 朝から酒屋に寄ったりして。 朝一杯飲み、 午後も一杯飲まないと気持ちが落ち着かないとか言いまして。 そして陽が落ちて、 電気がつくようになるとまた一杯。 というようになると、 だんだんアルコール中毒になってしまうでしょう。 暇がいけないのです。 暇があり過ぎるのがいけないのです。  -つづく-

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