定めなき習い

東京国際仏教塾第12期の記念講演で、鎌田茂雄先生にお話しいただいた内容を一週間に1回、5回に分けご紹介します。
今回は、その第1回目です

日本の仏教界でも、 死というものは、 どんな方でも、 真っ直ぐ受け止められまして、 それぞれの宗派を開いております。
皆さん日蓮上人というと強いなと思うでしょうが、 日蓮上人という人は、 非常にやさしい方です。 表面は強いけれども、 特に鎌倉幕府の迫害を受けたようなときには、 どんな権力にも自分は屈しないという強烈な気迫と抵抗力を持ちます。 しかし、 日蓮上人が信者に宛てました手紙を見ていますと、 本当にやさしいんじゃないかなあという感じを持ちます。
たとえば、 だんな様が亡くなって、 その奥様に慰めの手紙を書いた。 そのなかで、 人の命は無常なり。 無常というのは常がないということです。 何ごとも永遠には続かない。 次から次に滅んでいく、 変わっていくというのが無常です。 人の命は無常である。
年寄りが死んで、 中年の人が死んで、 若い人が死んでいくというのならばおめでたい。 ところがそういかないでしょう。 昔から老少不定といいまして、 決まっていないというのが人の死であります。 順番に死んでいくのがいちばんおめでたい。 90のおじいさんが亡くなって、 70のそのお子さんが亡くなって、 そして順番に死んでいくというのならいいのですが、 そうではないのです。
風の前の露、 なお例えにあらず。 風前のともしび、 というでしょう。 それと同じだと。 賢きもはかなきも、 老いたるも若きも、 定めなき習いなり。 こういうふうに日蓮上人が書いておられるのです。
ちょうど原始仏典で書いてあることと同じことなのです。 賢い人も愚かな人も、 老人も若い人も、 死というものの前には定めがないのだということを日蓮上人も言っているのです。 ただ、 原始仏教のインドの仏典の場合は、 冷厳に書いています。 事実をそのまま書いている。   -つづく-

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