臨済宗専門課程を学んで

第33期 専門課程 S.Y.

思想としての仏教ではなく、信仰としての、つまり生活実践としての仏教を学びたいと思って専門課程を履修した。もちろん、思想あるいは哲学としての仏教も大切なものだと思うが、仏教の思想あるいは哲学としての側面を重くみるあまりに、「信じる」という側面を従属的なものとして扱うような立場には飽き足らないものを感じる。
わたしの拙い考えだが、科学が「事実」に関する問題を扱うのとは違って、信仰というものは「願い」に関するひとびとの日常生活の営みなのではないだろうか。事実の問題として考えようとする限り、ほとんど全てなにもかもが不確実であるような世界の中で、他が救われてあることを願うという実践には、そもそも合理的な根拠が本質的には欠けているのかもしれない。しかしそのような願いが、仏教宗派による具体的な宗教実践として、集合的に共有されていることは有難いことだと思う。
そのように考えて専門課程に入って実践してはみたが、実際に体験してみると、信仰を実践することの個人的経験の欠如を痛感した。宗教的な要素の全くない環境で育ち、自然科学分野を背景とする職業生活を送ってきた自分にとっては、信仰としての仏教についての経験があまりにも乏しすぎて、あらゆることが感覚的になかなか把握できないのである。たとえば、お経をあげることひとつについても、「声を出して読み上げる」とか、あるいは「誰かに言葉を告げる」とかいうような行為と、「読経」という行為との違いが、はじめ直感的には理解できなかった。そのぐらい、宗教というものがわからなかったのである。松村和尚さんに、「うーん、それだとなんかカウンセリングをうけてるみたいだな」と諭していただいて、そしてしばらくよくよく考えてみて、やっと読経が宗教行為としての祈りであるということに気がついた。本当に申し訳ないことだが、どうすれば自分自身の読経が信仰の行為として成立しうるのかについて、小学生ほどにもよくわかっていなかったのである。このことに気がつけただけでも充分にありがたく、専門課程に入ってご指導をいただけたことに感謝したい。

#東京国際仏教塾 #仏教を学ぶ #仏教を知る #専門課程 #臨済宗