第2回 第35期修行 鹿野山禅研究所感想文③
臨済宗・鹿野山禅青少年研修所における禅修行を体験して、受講生が感じたまま、見たままの様々な感想が寄せられました。その中から一部、ご紹介します。
鹿野山修行~「黙」に込められた教え~ S.B.
今回の臨済禅修行を通して印象に残ったことは、「黙」の世界の奥深さである。
修行開始序盤、うっかり緩みかけた私たちの心を見透かすかの様に、大熊学監から「禅宗は黙!」という厳しい檄が飛んだ。そう、私たちはお寺に入ると同時に私語厳禁、歩くときも食事中も、音を立てないよう厳命を受けていた。「黙」の中に身を置き、自分と向き合う。これが「修行」なのだと、改めて自らに言い聞かせた。
「黙」の辛さを感じたのは何より食事中である。給仕係との簡単な意思疎通に四苦八苦。これも修行なのか。やはり修行とは、苦労に耐える事なのであろうか?
しかし私の想像は否(いな)、であった。「あたりまえ」を封じることで、鍛えられる「何か」を感じたからである。
「黙」のコミュニケーションは、「伝えたい」と「わかりたい」という想いがあって初めて成立する。互いを察する事が必要だ。修行の場での食事は緊迫した究極の環境。そう、全力で伝えねばならないのだ!
こう考えると、黙を貫く意味が分かって来た。言葉は便利で、互いの目も見ずに、情報伝達は成立する。これに頼り切ると、相手の気持ちや心の内を分かろうとする能力が退化していく。「黙」の中では、目を見て察する人ことが不可欠である。これに気付いてから、作法の一つ一つを大切に思えるようになり、相手の一挙手一投足に集中できるようになった。
道元禅師は「普勧坐禅儀」のなかで、座禅を「安楽の法門」と説かれた。習禅と思うと、時に辛い座禅も、それ自体を尊いと気づくと愛おしい。一見厳しい修行も、なかに「おしえ」がある。苦しみに耐えるのでなく、「理」を解して己を磨く事が出来るなら、なんと素晴らしい事ではないか。
鹿野山での禅修行体験は、険しくも希望に満ちた仏道の一端を窺い知ることが出来た、幸せな3日間となった。
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