日本仏教史
第35期のスクーリングで行われた小峰彌彦先生の講義内容の一部を掲載いたします。
今回のテーマの「仏教の日本的展開」は、『般若心経』を巡って、仏教伝来時の状況と、密教との関わりを中心にお話します。
一、仏教伝来
仏教は、538年に日本に公式に伝来しました。これは百済の聖明王がお経と半跏思惟像を持ってこられた。どうして公式なのか、その前にも仏教は伝わっていたと思われる方もあるかもしれませんが、やはり国家的に正式に仏教を認めることで、幅広く、始まったのが538年です。諸説ありますが、この時代に日本に仏教が伝来しました。
例えば、奈良時代には三論宗、華厳宗、法相宗、律宗などの仏教がいちどに入ってきましたので、それ以前も同じように仏教が入ってきたと思い込んでしまうかも知れませんが、538年というのは、仏典翻訳の玄奘もまだ生まれておりませんし、浄土教の善導や天台の智顗も500年の後半から600年代の方です。その当時日本に伝わってきたのは、いわゆる経論であり、論理づけられた教学的な仏教ではなく、いわゆる仏伝のようなお経でした。そして、仏像も、その当時、新羅や百済で信仰されていた弥勒が入ってきました。半跏思惟像というのは、仏陀が出家する以前の姿ですが、弥勒が五十六億七千万年後に、この世に出現して仏法を説くということが、釈尊の再来ということと重ね合わせて考えられていたということです。釈尊以降、釈尊と同じ悟りを得た人はいないので、弥勒菩薩が釈尊に代わって、人々を導くという信仰が入ってきたのです。しかしながら、その当時、日本には僧侶は来られていなかったので、仏教教義が説かれることは、あり得ないわけです。また、日本の最初のお寺は、飛鳥寺ですが、仏教が入ってから、しばらくたってから出来たということです。ですから、仏教伝来のときには、お寺とはどういうものであるのかは、当時の日本人には全く分からなかったわけです。実際に、飛鳥寺が建てられたときには、日本人はほとんど携わらず、百済の人たちがつくったということです。
そのように、日本に原始的な仏教が伝わってきたのですが、その後、その仏教を取り入れるべきか、排除すべきか、ということで、蘇我氏と物部氏が争いました。結果的には物部氏が滅んで、蘇我氏が勝利し、そして、仏教は正式な日本の国家の宗教と位置づけられました。しかし、実は、物部氏も決して仏教に反対していたわけではなく、むしろ仏教を保護していたのです。というのは、難波津の辺りに渋川という地があります。その渋川を本拠地としていたのが物部氏で、そこから飛鳥寺と同じような古い瓦が出てきています。その当時、すでに飛鳥寺と同じような時期にお寺ができていたという考古学的証拠が発見されているのです。しかし、蘇我氏と物部氏の争いというのは、実は天皇家の争いであり、崇峻天皇に蘇我氏が加担し、その兄弟である穴穂部皇子に物部氏が誘われたのです。当時は、天皇や、天皇の皇子には非常に大きな力がありましたから、命令されると、そのとおりに動かなければなりませんでした。つまり、それは、むしろ天皇の権力争いであったということが自然と分かります。
そのような歴史的な背景があって、日本に伝来した仏教は、日本の古来の神道と結びついていくわけです。
仏教は、神道と全く違うように思われるかもしれませんが、最初の僧侶というのは、実は12歳ぐらいの三人の娘さんたちだったのです。その娘さんたちが百済に行き、得度をして、そして僧侶として認められたのです。そのことは、神様のお告げを霊媒して話をするという、シャーマン的な存在の巫女と変りなく、仏教の教えを霊的に感じて、そしてそれを話す、というようなかたちであったと考えられます。ですから、仏教と神信仰は、内容的には同じようなことであったということになります。
※全文は『佛教文化』第211号で紹介しています。
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