仏教はどのように世界へ伝わったか(第29期スクーリング特別講義)

釈尊が説かれた仏教はどのようなものだったでしょうか。ひとつ目は輪廻転生の思想からの解脱。ふたつ目は苦悩からの解脱です。
釈尊が生まれた時代、インド全体の思想や精神的深化は、苦悩の世界に生きる己身の解脱を目的とするという方向に向かっていました。仏教はこの精神的環境の中に咲いた精華です。苦悩がどうして起こってくるかという原因を、釈尊は明らかにされたのです。
釈尊が亡くなられてすぐ、釈尊がどんなことを教えられたかということを、弟子たちが集まって、それを記録にするという、第一回の経典の結集がなされます。それが『阿含経』を中心とした経典として残っているものです。
それから百年ぐらい後、第二回の結集がなされます。このときに仏教が根本分裂をしました。根本分裂とは、上座部と大衆部の二つに分かれたことです。
上座部というのは、釈尊が残された言葉を曲げないで、そのまま実行しようという形をとろうとする人々です。対して、大衆部というのは、「いや、そうじゃない、釈尊はそんな型にはまったことをおっしゃったのではない。釈尊のおっしゃった言葉の意味、それを明らかにすべきである」と考えた人たちです。
上座仏教はさらにふたつに分かれます。ひとつは南伝仏教で、スリランカからビルマ、タイ、ラオス、カンボジアへ伝わったものです。もうひとつの派は、西北インドを中心として栄えた部派です。
一方、大衆部は、紀元前百年ぐらいから大乗仏教が中心になりました。
中国への仏教の伝播は、北西インドから中央アジアへ入り、紀元前2年・前漢の時代とされていますが、本当の意味での大乗仏教の伝播は、鳩摩羅什師の入唐です。鳩摩羅什師の偉大なのは、単に経典を翻訳しただけでなく、大乗仏教の根本思想を中国に伝えたことでした。これによって大乗の思想が論理を尽くして人々に伝わりました。南北朝時代には多くの経典が翻訳され、唐に入ってから花開き、仏教は興隆。唐代は中国仏教の黄金時代でした。
朝鮮半島へ仏教が渡ったのは、鳩摩羅什師を請う前秦の苻堅王が、372年朝鮮半島へ経典と仏像を送ったことに始まります。
日本に公式に仏教がもたらされたのは538年百済からとされています。聖徳太子(574 -622)は高句麗の恵慈師の教えを受けながら、三経義疏を著わし、憲法十七条を定めて、仏教を国教とすることに力を注がれました。奈良時代には聖武天皇が大仏を建立し、各地に国分寺・国分尼寺を建てて、仏教による国づくりを目指しました。
鎮護国家の仏教とは別に、平安時代には個人の恐怖の除去や病気の平癒、招福を願う加持祈祷を仏教に求める傾向が高まり、また、それとは別の流れで貴族たちの間には宇治の平等院に見られる阿弥陀仏国への浄土往生を願う浄土思想が普及していきます。この流れは、貴族社会にとどまらず一般庶民にも広まり、空也(903 -972)によって民衆の中に入って念仏を唱える布教スタイルが確立していきます。空也は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を唱えなさい」と阿弥陀仏の前では一切の人々が平等に救われることを説いて念仏の教えを広めました。
鎌倉時代は、まさに、日本の精神文化の大変革期にあたります。貴族社会から武家の時代に変化したように、仏教も国家鎮護や加持祈祷の宗教から、個人の心の救済を求める精神的深化をとげていきます。

※上記は第29期のスクーリングの講義内容を要約したものです。
※さらに詳しい内容を知りたい方は、冊子「佛教文化」185号をご覧ください。