宗教における不死

宗教は、死にゆくことを運命づけられている人間が、その事実にどのように向き合っていくかいうことを最も重要なテーマとしています。これは仏教も例外ではありません。

お釈迦様は、我々が我執にとらわれ生きている娑婆世界を「一切皆苦」とご覧になり、中でも私たちが生きている限り、絶対に避けられない「生」「老」「病」「死」を四苦として挙げています。限られた命として生まれ、必ず死にゆく定めにあるにもかかわらず、自分の命を失いたくないという苦しみを人間の持つ根源的な苦として示されました。

人々は、宗教の中に永遠の命=不死を求めることにより、死への不安を克服するのでしょうか。そうであるとも言えるし、そうではないとも言えます。

私たちが普通に考える不死とは、生物学的な不死です。これは人間に与えられた有限の命という制約を超えて、無限の命を求めていくことであり、けっして実現できないことです。世俗の権力の頂点を極めた中国の歴代皇帝が、不老不死を求めても叶うことはありませんでした。

宗教における不死とは、このような生物学的な不死ではなく、また我々の有限の命を引き延ばすようなものでもありません。個々の生命の生死を超えたもの、我々も含めた生きとし生けるものすべての命がそこから来てそこに還る「大きな命」の流れに抱かれていることを見出して、その無限の命と自分との境界が取り払われ、一体となることです。

このことを、お釈迦様は、「不死の門は開かれた」と、中国浄土教の始祖とされる曇鸞大師は「無生の生」(迷いの世界の生ではない浄土への往生)と表されています。

また、近代プロテスタント神学の父といわれるシュライエルマッハーは、「宗教について」という有名な講話の中で、「有限なものの真ん中で、無限なものとひとつとなり、その瞬間において永遠となること、これが宗教の言う不死性なのです」と述べています。

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