分別が生み出す対立

私たち人間は、あらゆるものを分類し、区別し、境界線を引くことにより、世界を認識しています。そして、自分にとって大切なことだけを選び取って、自分と他人、内と外、男女、老若、敵味方などと区別し、自分の思いで作られた世界の中に閉じこもっています。これを仏教では「分別」と呼びます。「分別がある」と言う言葉は肯定的な文脈で使われますが、本来の意味からは逆になっています。分別を離れた「無分別智」を得ることが仏教の目的です。

仏のさとりの眼から見ると、本来はそういった区別はありません。縁という関係性によって全てのものが起こり、縁が尽きればそれが集まっただけの存在は消え去っていくという「縁起の道理」で世界を見ると、すべてのものに境界などなく、ありのままでそれぞれの役割を果たしています。仏の眼からみれば、一切平等、一味平等です。

ウクライナとロシアとの争い、イスラエルとパレスチナとの争いを見ても、自と他を区別して境界線を引き、自分が正しく相手が間違っている、こちら側が大事でありあちら側は大事でないという思い込みが、対立と争いを生み出しています。

親鸞聖人の言葉を弟子の唯円が記録したものとされる『歎異抄』には、「一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり」という一節があります。縁起の道理を通して見ると、全ての命は一つにつながっており、我々の主観(分別)が作り出す自分の家族と他人の区別は存在しません。仏の眼から見ると、すべての生きとし生けるものは、等しく仏となる身なのです。

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