名は仮のもの

「ミリンダ王の問い」という仏教の聖典があります。紀元前2世紀頃にインドの北部を治めていたギリシャ系の王国のミリンダ王が、仏教の尊者であるナーガセーナに出会って、数々の問答を通して仏教に目覚めていく過程が書かれたものです。

その問答の一つに「諸法無我」についてわかりやすく教えてくれる以下のエピソードがあります。

ナーガセーナ長老は「自分はナーガセーナという名前で呼ばれているけれども、そのような個体は存在しない」とミリンダ王に述べます。ミリンダ王は「そんなことはないだろう。あなたは今実際ここにいて、教えも説いているではないか」と反論します。

それに対してナーガセーナは「王様は車に乗ってきましたね。車は一体どこにあるのですか、轅(ながえ)ですか、車軸ですか、車輪ですか、車室ですか。一体どれが車にあたるのですか」とミリンダ王に一つずつ問います。

ミリンダ王は「それらは全て車ではない。車の一部であるそれらの部品が縁(よ)って、たまたま車という存在になっているのだ」と答えます。

すると、ナーガセーナ長老は、手を打って「王様は車というものを正しく理解しました。それと同じように、私というのも、髪が縁(よ)って、毛が縁って、脳が縁って、さまざまな心の作用が縁ってできています。そこにナーガセーナという名前をわれわれは付けているけれども、本来的な意味においては、そこには人格的な個体などは存在しないのです。全てが縁起であって、そして、“我”と言われているような永遠に続くものはそこにはありません」と答えました。

この逸話にあるように、私たちは、実際にはただ縁が寄り集まっただけのものに名前を付けてそこに実体があると考えています。さらに、そこにはっきりした境界があると考えて、いろいろなものを区別しています。
たとえば、男と女という区別も、実体的に存在しているわけではありません。
たまたま、見かけや性質などで区別しているだけです。現代では、男性と女性の境界というものも、我々が考えるほどはっきりしたものではないということが、社会的にも認知され始めています。男と女という区別もそれで終わりではなくて、夫や妻と呼ばれたり、息子や娘と呼ばれたり、父や母と呼ばれたりしますが、どれも名を呼ぶ側の立場で区別しているだけです。
私たちが名前を付けて境界を設定しているものは実は仮の存在で、そこに永遠にありつづける実体(我)はないということになります。

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