仏の命をいきる
私たちは、命というものを考えるときに、個人や個体の命を想定してしまいますが、本当はそれを越えた無限ともいえる大きな命によって、あらゆるものが生かされているのではないでしょうか。
現代の物質文明に生きる人々は、自分の命は自分だけのものであると考え、生まれたときに自分の命が始まって、個体としての死を迎えるときにその命が終わる、それ以前もそれ以降も命は存在しない、一切が無である、と考えている方が多いようです。
しかし、お釈迦様が説かれた「縁起の道理」によれば、すべてのものは、つながり合って、依りあっており、「縁」の集まりとして存在しています。私たちも大自然の一部として、その中から全ての食物やエネルギー、体を構成する物質などを与えられており、そして様々な活動を通じて最後は土に還ることによって、他の生命を支える存在でもあるのです。決して自分だけの命ではありません。
このような何十億年も続く生物の営み、さらにそれ以上に続く宇宙の営みこそがすべての生命を育んでいるものであり、このすべての生命の帰するところが、本当に命と呼べるものだと思います。
仏教では、このような根源的な命のことを「真如」、「一如」、「空」ということばで表し、そしてその普遍的な命に我々が摂め取られていることを示していただけるものを、「如から来たるもの(如来)」=「仏」として表しています。
『正法眼蔵』を著された道元禅師は、「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」と表現され、生死の迷いをさまよう我々の命は、仏の命という無限の命によって生かされていること、すなわち仏の命の中を生きているということを我々に教えてくれました。
浄土教典の中では、この仏の命は、無量寿如来(阿弥陀如来)として表され、我々が本当の命の存在に目を開き、有無の見(我々の思っているような個体の命が有るとか、または全く無いという偏った考え方)を離れることの大切さが説かれています。
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