大乗仏教論 ―大乗仏教の柱としての説法者ダルマバーナカ―

第34期スクーリング、大乗仏教論の講義風景

大乗の起源とそのポイント 

大乗とは新たな教えをまとめ、それを宣教する仏教運動であったわけですが、大乗経典の編さん者は一体誰なんでしょうか。「私が書きました」という著者名はどこにも書いてありませんね。大乗経典もそれ以前の経典と同じように、皆「ブッダは彼処におられた」という定型句で書かれていますが、さらに大乗特有の菩薩の登場が述べられています。これは大乗の経典が新たな考え方をもとに編さんされたということに他なりません。どなたかがこれを編さんされたわけです。その編さんをした人は誰か、これについても後程言及いたします。

それから、記憶による伝承と書写による伝承という2つがあります。現に私たちは書かれた経典を持ちますよね。しかし、書くという作業は、これは並大抵の労力ではありませんし、財力も必要ですし、環境が整わない限り、書いた経典を書写することはできません。古代のインド、あるいはその周辺諸国では数百年にわたって、仏典は書いて伝承されたものではありません。記憶によって伝承されています。仏教ですから神(紙)に頼るなということじゃなくて、紙は使わないんですよ。それでいつぐらいから紙を使ったか。あるいは、紙に変わるもの。樹皮とか、葉とか、時には動物の皮とか使ったんですよ。今でも写本用の樹木の皮があるんですよ。そういうものに書いたんですけど、そういう伝統というのは、大乗仏教になって一般化したんです。大乗経典というのは、最初から書くということを前提として伝えられているんです。それ以前は記憶によって師匠から弟子へと伝えられる、口承伝承とかいうんですね。そういうやり方で、伝承していたんですが、大乗仏教はそれを変えていったのです。

次のポイントはその教えをどのように伝えたかということですが、これを転法輪と言います。法輪というのはダルマ・チャクラといいまして、それ(教え)を説くことが転法輪です。教えを転がすというのは戦法に例えているんです。車輪は武器の象徴なんですよ。インドラ神の武器はチャクラといわれる車ですから。これを転がしてあらゆるものを征服する。だから、そういうようなものをコントロールできる人が最大の王様で、転輪聖王とも言いますね。
その法輪を最初に転がしたっていうのを、初転法輪といいまして、ブッダがバラーナシー近くのサールナートというところで、初めて五人の修行仲間に説法された。それを初転法輪といいまして、その数百年たって、大乗の教えができた時に、大乗の経典自身がこの教えを第二の転法輪といったんです。つまり、新しい経典を説法する時に、ブッダのそれになぞらえたんです。そして、多くの大乗経典は、自らこの教えを説くことを「第二の法輪が説かれた」、このように言います。大乗仏教経典の説法形式の一つの重要な要素なんです。もちろんブッダが説いたわけではありませんよね。大乗経典は仏滅後数百年たってからの経典ですから。でも、そういう第二の転法輪という形式と思想というのが大乗仏教に共通にあるわけです。ただし、この問題は今回は話しません。
それから、次のポイントは仏塔信仰です。ブッダの信仰から仏塔信仰へという展開です。仏塔というのはブッダのお墓ですから、それがどういうように仏教信仰の中で中核的な役割を果たしていったのかということも、大乗仏教の起源を語る上で欠くことのできないお話なんですね。

それと関連するのが仏塔を中心とする塔廟(チャイトヤ)と説法師の登場です。これはみなさんご存じのように浅草に電波塔がありますよね。スカイツリーとかいっておりますよね。あの塔のことですね。仏塔の塔。これはストゥーパといって、これがお塔婆になるわけです。ストゥーパまたはトゥーパといいまして、これを塔という言葉に翻訳しただけです。言葉としては、電波塔の塔はこれから来ているんですよね。
そして、このような塔(ストゥーパ)と塔廟(チャイトヤ)、それと説法師の関わり、説法師はどういうような人であったのか、そして大乗仏教運動の推進者として説法師がどのような役割を果たしていったのかということを順次お話ししていきたいと思っています。

※こちらは第34回スクーリングで行われた渡辺章悟先生の講義の冒頭の一部です。
※詳しい内容、続きを読みたい方は、冊子「佛教文化」第208号をご覧ください。
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